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行田の歴史

​宝探しを通して行田の歴史を感じよう

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​古代の行田

 ​埼玉県名発祥の地となった埼玉の地には、5世紀後半から7世紀中頃にかけて約150年に渡り、大小の古墳が数多く作られ埼玉古墳群が形成されました。その中でも、前方後円墳8基、大型円墳1基の計9基の大型古墳が残存しており、昭和13年に国の史跡に指定され、令和2年には、史跡の国宝である、特別史跡に指定されました。

 埼玉古墳群は前方後円墳の企画性が高く、8基すべてで、

① おおむね南北に軸をそろえている

② 長方形の2重の堀に囲まれている

​③ 西側に造り出しという張り出し部(祭祀場という説あり)をもつ

​という特徴が共通しています。

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​中・近世の行田

 平安時代後期には、武蔵武士が歴史に登場し、成田氏がこの地を本拠地としました。15世紀後半に、成田顕泰が築いた忍城は、沼地を巧みに利用した難攻不落の城で関東七名城に数えられました。1590年、天下統一を進める豊臣秀吉は、成田氏一族と家臣等約2,000人が立てこもる忍城を攻めるため、石田三成を総大将とする2万の軍勢を派遣しました。埼玉古墳群の「丸墓山古墳」の頂上に陣を張り、忍城に水攻めを仕掛けますが、ついぞ落城することはありませんでした。

​ 近世を迎えると御三階櫓が建設され、阿部家や松平家が忍藩主となり、十万石の譜代として、この地は栄えました。

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行田足袋1.JPG
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​近代の行田

​ 行田周辺には足袋の原料となる木綿や青縞の産地で、江戸時代の後半には足袋が特産品として知られていました。明治時代になるとミシンが使われるようになり、足袋の生産量は増大し、行田の足袋は日本一となりました。昭和13年の足袋生産量は約8,400万足で、全国生産のおよそ8割を占めていました。今も日本一の足袋生産地として和装文化の足元を支える行田には、多くの足袋蔵等歴史的建造物が残り、趣ある景観を形作っています。

 この、「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵の町行田」のストーリーは、文化庁によって平成27年度創設された新しい文化財制度である日本遺産に認定されました。

​ また、「行田足袋」は令和元年に国の伝統的工芸品に、郷土博物館所蔵の「行田の足袋製造用具及び関連資料」は令和2年に国の重要有形民俗文化財に指定されました。

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